
![]() | ‐チョウシャク‐(生没年不詳)高祖の頃の宦官。高祖が崩御し呂后が専横を始めた頃には宦官の宦者令と謁者の長官・大謁令を兼ねていた。呂后の死が近づくと 宦官が呂氏に協力するようにと宦官の代表・張釈を建陵侯に、多くの令・丞並の宦官は皆、関内侯に封じた。だが呂后のきたいも虚しく 彼女の死後、功臣たちの働きで呂氏一族は誅滅された。このときの皇帝は呂后祭り上げられた少帝だったが、これは本来劉氏ではなかった ので廃することになった。少帝の護衛は周勃の命令に従い武器を捨て退去したが、数人は留まろうとした。だがこの数人は張釈に諭されて退去した。 こうして少帝廃位は無血に終わった。 |
![]() | ‐チョウダン‐(生没年不詳)文帝に仕えた宦官で占星望気の術に長じていたため寵幸された。 |
![]() | ‐ホッキュウハクシ‐(生没年不詳)文帝に仕えた宦官。人に慈しみ深く徳があったので親近された。 |
![]() | ‐チュウコウエツ‐(生没年不詳)燕の人。文帝時代の宦官。文帝が老上稽粥単于に翁主を公主として降嫁させた際に世話役として同行するよう命じられた。 もともと行きたくなかっただけに無理やり派遣されたことを恨み、漢に復讐することを誓った。彼は匈奴に到着するなり 単于に忠誠を誓い直臣となる。そしてしきりに漢を攻めるように進言した。また漢の使者との折衝も担当し、匈奴を見下す使者に対しては 厳しく反論し逆に匈奴の素晴らしさを唱えている。 |
![]() | ‐リエンネン‐(?〜前87年)中山の人。武帝に寵愛された宦官。娼妓の母をもつ。若い頃、罪をおかし宦官となるが妹を武帝の寵姫にさせることに成功し 次第に出世していった。また武帝には男色の気があり、李延年自身も武帝に寵愛され寝食をともにするようになる。 また李延年の弟・李季は兄の権勢を頼みにして宮女に手を出したことが発覚。武帝の恨みを買うことになる。 李夫人在世の間は、さすがの武帝も手を出せなかったが夫人が早く亡くなったため、ついに李季は処刑された。 このとき李延年も武帝の寵愛を失っており、連座制で処刑されてしまった。ちなみに匈奴と戦った李広利将軍も李延年の弟である。 |
![]() | ‐シバセン‐(前145年〜?)子長。左馮翊郡夏陽龍門正史二十五史の第一番「史記」を著した歴史家。父・司馬談は太史として王朝に仕えていた。太史は天文、暦法を司る職であり歴史家としての 性格ももちあわせていた。司馬遷は幼い頃からその類稀なる学力を発揮し、各地を見聞することで益々知識を深めた。長安に戻ると郎中と して出仕することになり父の死後は太史を継ぎ太史令となった。跡を継いで数年後の天漢二年(前99年)武帝に対して反論したことで 武帝の怒りを買い死刑宣告を受けてしまう。その反論とは匈奴討伐命令を受けた李陵が匈奴十万に対し五千で戦うことを余儀なくされてついに降伏した ことについてである。李陵の人柄を理解していた司馬遷は武帝の作戦立案に対し疑問を投げかけ、李陵が降伏したのは仕方ないことである。 死刑宣告を受けた司馬遷だったが、死一等を免れる賠償金を払う金もなかったので宮刑を受けることで死刑を免れた。宮刑とは腐刑ともいい 生殖器を切除することである。中国では自分の身体を傷つけるということは最大の罪とされていた。ゆえに司馬遷は死刑を恐れる臆病者として 笑われ人間視されることもなくなったのだ。だが彼は「私は臆病とはいえ、義のために命をすてるべき道理をわきまえています。どうして 好んで縄目の恥に身を沈められましょう。恥を忍んで生き残り、糞土のなかに陥るのも辞さなかったわけは我が心中にまだ言い尽くさないものがあり 死んでのちに我が文章が世に出ないことを恥じる故であります。」と友人への手紙で本音を述べている。そして史書を完成させるという 父、そして先祖の夢を叶えるべく二十数年かけて、ついに「史記」を完成させた。だが武帝の在世中は公開してはならないと封印し司馬遷自身も 武帝崩御と相前後して没した。彼の死後、封印した史書は「太史公の書」と呼ばれ歴史書として高い評価を受けた。ちなみに「史記」という 呼称が定着するのは後漢の時代である。 |
![]() | ‐チョウガ‐(生没年不詳)武帝の子・衛太子に仕えた官吏。衛太子が父に疑われて殺されると張賀も連座して処刑宣告を受けた。 しかし弟・張安正の願いで罪一等を免ぜられ宮刑を受けることになった。宦官となった張賀は衛太子の孫・病巳をひきとり 自費で教育する。そして病巳が長じると自分の娘と娶わせようとするが、弟の反対にあってしまう。 そこで部下である許広漢の娘を娶わせることにした。 果たして数年後、病巳は皇帝に即位、宣帝となった。またこのことから後に恩徳侯に封じられている。 |
![]() | ‐キョコウカン‐(生没年不詳)昌邑の人。昌邑王に仕えていた役人。武帝が甘泉宮に行幸する際、お伴に加えられたが誤まって他人の鞍を自分の馬につけてしまったことから盗人扱いされてしまう。 しかも悪いことに行幸のお伴が盗みを働くのは武帝に対する不敬罪にあたるということから死刑宣告をされた。 許広漢は死罪を免れるため宮刑を望み宦官になることによって生き長らえようとした。宦官になったあとも相変わらず失敗を重ね 左遷される一方であった。そんなおり張賀から自分の娘と劉病巳を縁組しないかと相談を持ちかけられる。 許広漢の妻は反対したものの縁組は成立。そしてその後、劉病巳は皇帝に推戴され即位することになった。宣帝である。 当然、娘は皇太后となり許広漢は外戚の仲間入りを果たし昌成君に封じられた。 |
![]() | ‐ダクケン‐(生没年不詳)皇太子時代の元帝が最愛の司馬氏を亡くし意気消沈していたとき、母の王皇后が別の女性を皇太子に薦めた。 その世話役をしたのが侍中の杜輔と濁賢である。ちなみにこのとき選ばれた女性の甥が後に漢を滅ぼした王莽である。 |
![]() | ‐コウキョウ‐(生没年不詳)沛郡の人。もと重罪人で宮刑されて宦官となった。その頃の皇帝・宣帝は外戚・霍氏の勢力を弱めることを画策。 霍氏によって占められている尚書の権力を宦官が努める中書に与え均衡をはかった。 また宣帝は民間で育っているため儒教政治の欠点を痛感しており、実力主義で官吏を取り締まった。 その結果、法制に詳しい弘恭が中書令に抜擢された。宣帝が没すると元帝が即位するものの病弱で政治を顧みなかったので 元帝は弘恭ら宦官に政治を委任した。そのため弘恭たちは強大な権力を握るようになった。もっとも弘恭は元帝即位の数年後に没してしまう。 |
![]() | ‐セキケン‐(?〜前32年)君房。済南郡若い頃に罪を犯し宮刑された宦官。外戚の力を削ごうとした宣帝は尚書の権限を宦官が努める中書に与えた。 その中でも事務手腕に優れていた石顕は中書僕射に抜擢されていた。元帝時代になると中書令に任命された。 弘恭が亡くなると尚書の役人まで自分の腹心で固め、地盤強化をはかり、また元帝が政治に関心をもたないことをいいことに専権の限りを尽くした。 百官は驚き石顕を告発しようとする者も現れたものの逆に弾劾され死に追いやられるケースが多かった。 これによって百官は益々石顕を恐れるようになった。だが元帝の跡を継いだ成帝は宦官の専権を嫌ったため 彼が留守の隙をついて丞相が告発したのを機に石顕を追放させた。追放されて間もなく石顕は路傍で病死している。 |
![]() | ‐ロウリョウ‐(?〜?)石顕が専横していたときの中書僕射。少府の五鹿充宗とともに石顕と結託し徒党を組んだ。民はこのことを 牢か石か 五鹿の客か 印の何ぞ 累々たる 授の若々たるや と歌った。だが石顕が失脚するやたちまち免職され追放処分を受ける。このときには 伊は雁に移り 鹿は菟に移る 牢と陳は去てられて まこと賈なし と歌われている。 |