
![]() | ‐トトツショウサイ‐(?〜820年)仁貞。福州の人憲宗に仕えた宦官。幼い頃より小黄門として太子李純に仕え、後に掖庭局博士となった。李純が即位すると(憲宗)内常侍に移り、 知内省侍、左監門将軍を任命され、短い時間に左神策護軍中尉、左街功徳使までも任じられ薊国公に封じられた。太子付きが皇帝になった 途端に出世する好例である。まさに側近が一新される瞬間であろう。元和四年(809年)に王承宗が謀叛すると憲宗は吐突仁貞(仁貞は 彼の字。以降、彼を吐突仁貞と記す)は彼を軍人として派遣しようとしたが独狐郁、段平仲らに反対されやむなく軍人としてではない立場で 出陣した。だが一年たっても鎮圧できず密かに王承宗と講和して許しを請う上奏文を書かせた。だが軍功がなかったことは事実で段平仲に 告発され軍器使に降格された。後に左衛上将軍、知内省事へと再び昇進している。その後何度も告発が続いたが憲宗に寵愛されていたことも あり降格、昇進を繰り返した。元和十四年(819年)に太子李寧が没すると新しい太子に李寛を擁立した。それに対し王守澄は李恒を 擁立。翌年、両者の対立は激しさを増そうとしたが王守澄は機先をを制し憲宗を毒殺。すぐさま李恒を即位させた(穆宗)。穆宗は後継者問題で 対立していた吐突仁貞を恨んでおり吐突仁貞はみすみす王守澄によって殺された。 |
![]() | ‐オウシュチョウ‐(?〜835年)元和の初め頃、宦官となった。憲宗の中期頃、徐州監軍を務めた。憲宗が不老長寿に凝りだすと丹薬を勧めたり怪しげな術師たちを憲宗に 近づけた。元和十四年(819年)に太子李寧が没すると後継者問題で有力宦官・吐突仁貞と対立。軍権をもち憲宗の信頼厚い吐突仁貞に 対し王守澄は梁守謙ら軍権をもつ宦官を抱きこみ対抗した。翌年になると丹薬の副作用で容態が悪化してきた憲宗を毒殺(黒幕は自分の子供が 廃立されることを危ぶんだ太子の母、郭妃がいたという)。王守澄は自らが推す李恒を即位させ(穆宗)、反対派の吐突仁貞を殺害した。 そして自分たちに属さない外臣も次々に排斥し朝廷内を完全に自分色に染め上げた。 王守澄は朝廷を憲宗時代よりも思いのままにするため、穆宗に淫蕩生活をおくらせ政治に関心をもたないように仕向けた。そして知枢密事となった。 だが穆宗はその生活が崇り即位五年で崩御。十六歳の長子・敬宗が即位することになった。この敬宗は穆宗より性質が悪く遊びに興じるが 気に入らないことがあると宦官にあたり悪くすると撲殺さえしていた。そのため敬宗自身がもっとも寵愛していた宦官・劉克明によって 殺されてしまうのである。劉克明は敬宗の叔父李悟を擁立したが王守澄はすぐさま梁守謙の率いる神策軍を動員。劉克明一派を討伐した。 この乱の後、鎮圧したのが穆宗の子、文宗である。そして王守澄は擁立の功臣として驃騎大将軍、右神策軍中尉に昇進した。ついに軍権さえ 握るようになったのである。だが文宗にとっては憲宗を殺害した王守澄らを許すことができず宋申錫を宰相に抜擢して王守澄らを除く計画を たてていた。だが密告者が現われ王守澄は先手を打って宋申錫を弾劾。宋申錫の腹心・張全真らを逮捕して拷問を重ねたが周りが彼らの 無実を訴えたため王守澄もついに断念。宋申錫を開州刺史に左遷させることで事件は終わった。やがて文宗は中風を患い病床に臥すようになった。 王守澄は徐州監軍時代からのつきあいで腹心ともなっていた鄭注を文宗の看病として、李訓を侍講として付き添わせた。だが文宗は鄭注や李訓を 味方に引き入れ、王守澄を除くように命じたのである。鄭注らはこの文宗の期待に応えるため宦官の仇士良を抜擢。神策軍中尉に任じた。 仇士良は文宗擁立時に功績があったのだが王守澄に昇進を阻止されており喜んで王守澄排除に協力した。王守澄は徐々に権力を奪われ 最後は文宗から毒酒を贈られ自殺させられた。 |
![]() | ‐リョウシュケン‐(?〜?)憲宗時代の宦官で右神策軍中尉。憲宗の太子・李寧が没すると李恒擁立の王守澄派に属して吐突仁貞と敵対した。敬宗が即位してまもなく 染色工の張韶と卜者の蘇玄明が百余名の工員を率いて反乱を起こすと敬宗は初め梁守謙を頼ろうとしたが梁守謙のいる右神策軍は距離的に 遠く、敬宗は左神策軍の馬存亮を頼った。馬存亮が鎮圧の兵を出すと梁守謙もすぐさま出兵。鎮圧にあたった。第一番の功績は逃したが 馬存亮が消極的だったため梁守謙が実質的に一番の褒賞をえた。劉克明ら下級宦官が敬宗を殺害し李悟を即位させようとしたときも軍を 率いて王守澄に協力。宰相の裴度と連合して劉克明らを討った。 |
![]() | ‐バシンタン‐(?〜?)憲宗時代の宦官。憲宗時代は王守澄と吐突仁貞の対立が激しく軍権を握っていた馬進譚らは抗争勝利の鍵となっていた。 そして王守澄が彼らの協力を得ることに成功し吐突一派を壊滅させられたのである。 |
![]() | ‐リュウショウカイ‐(?〜?)憲宗時代の宦官で王守澄派に属し吐突仁貞派を壊滅させた。 |
![]() | ‐ホウゲンソ‐(?〜?)憲宗時代の宦官で王守澄派に属し軍権を活かして吐突仁貞派を壊滅させた。 |
![]() | ‐チンコウシ‐(?〜835年)憲宗時代の宦官で内常侍。憲宗が重病で余命幾ばくもない頃、宦官の王守澄と吐突仁貞の対立が激化していた。 王守澄の腹心である陳弘志は王守澄の命令で憲宗を毒殺。王守澄はすぐさま穆宗を擁立。穆宗即位に反対していた 吐突仁貞を死に追いやった。こうして王守澄一派は権力を掌握するが後に李訓によって壊滅させられるのである。 陳弘志もまた李訓によって襄陽監軍に任命され任務先に向うところを殺されている。 |
![]() | ‐リュウキコウ‐(?〜?)憲宗時代の宦官。吐突仁貞の下で収賄に精を出していたが発覚し告発された。憲宗はすぐさま劉希光に罪を与え 吐突仁貞にもしかるべき罰を与えている。憲宗は吐突仁貞を寵愛していたため周りは不思議に思ったが 憲宗は「宦官は所詮奴隷にすぎない」と割りきった面を持っていたようである。 確かに吐突仁貞はその後も何度も告発されている。 |
![]() | ‐バソンリョウ‐(生没年不詳)季明。河中の人元和年間、敬宗のときに左神策軍副使、左監門衛将軍となり、左神策軍中尉に昇進。知内侍省事にも任命され主管した。馬存亮は人選に 厳しく神策軍十数万は精兵であった。ある日、染色工の張韶と卜者の蘇玄明が百余名の工員を率いて反乱を企てた。だがこれは事前に発覚。 予定を早めて挙兵。宮廷内に入りこみ浴堂門を閉じさせた。清思殿で撃毬で遊んでいた敬宗は慌てて右神策軍の梁守謙を頼ろうとしたが 位置的に左神策軍は遠く、敬宗は左神策軍に逃げ込んだ。馬存亮はすぐさま兵を挙げ反乱軍を攻め、日暮れまでに首領の張韶と蘇玄明を 殺害、夜明けには反乱軍を全滅させ鎮圧に成功した。この騒動で馬存亮は一番の勲功を挙げたが馬存亮自身は権勢には消極的で監淮南軍を 求めただけであった。また別に二百戸を賜った。後に内飛龍使に任じられ太和年間半ばには右領軍衛上将軍に任じられ岐国公に封じられた。 徳宗〜文宗と六代に仕えたが一貫して忠実に勤務し将兵は皆、彼を敬慕した。そのため馬存亮が引退するときに将兵は皆、泣いたという。 没すると揚州大都督を追贈された。 |
![]() | ‐ヨウショウワ‐(?〜?)敬宗時代の宦官で枢密使。劉克明らが敬宗を殺害すると王守澄、宰相の裴度とともに李昂を立て劉克明討伐にあたった。 |
![]() | ‐ギジュウトウ‐(?〜?)敬宗時代の宦官で梁守謙と同じ神策軍中尉。同行は梁守謙とほぼ同じで李克明の敬宗殺害事件では王守澄に協力し 事態の収拾にあたった。 |
![]() | ‐リュウコクメイ‐(?〜826年)敬宗に寵愛された宦官。父・穆宗が即位五年で病没すると敬宗は十六歳で即位した。父・穆宗は王守澄らによって骨抜きにされ淫蕩な生活を おくったため早逝したが敬宗はそれから何も学び取ることはなく父以上にひどい生活をおくった。深夜まで飲み騒ぎ、朝寝坊をし、 朝廷は顧みず、賭け事を好み、市井の不良少年を宮中に召し出してはポロ、賭博、相撲を楽しんだ。また相撲で負傷者が出ると却って喜び 怪我した者に対して莫大な褒賞を与えた。さらに臣下も敬宗に媚び、力士を献上して取り入ろうとした。この献上された力士は敬宗の寵愛を いいことに宦官に暴力をふるった。また敬宗自身も気に入らないことがあれば宦官にあたりちらしていた。この横暴に危惧を抱いたのが敬宗に 最も寵愛された劉克明である。劉克明は王守澄が権勢を振るうことを面白くないと感じていたため彼のやり方をまねた。すなわち敬宗を 殺害し、自分たちが擁する皇族を即位させようとしたのである。夜更けの酒宴で厠にたった敬宗を狙い一気に殺害。敬宗は叔父の李悟に譲位に したとにわかに発表した。だが王守澄らはこれを陰謀と見て取り、すぐさま梁守謙ら軍権をもつ宦官に協力を要請。穆宗の子・李涵を擁立して 挙兵し劉克明らを攻めた。劉克明は敗れ井戸へ投身自殺をして果てた。王守澄らは劉克明の死体を引き上げると切り刻んで晒し者とした。 |
![]() | ‐セキテイカン‐(?〜826年)劉克明とともに敬宗を殺害した宦官。敬宗が趣味の一つ打夜狐(夜中、皇城から抜けだし狐狩りを楽しむ遊び)から帰ってくるとそのまま 二十八人の宦官と一緒に酒宴を開いた。敬宗は酔いがまわり厠に入った。その敬宗にお供したのが劉克明、蘇佐明、石定寛である。四人が 厠に入ると劉克明は合図を送る。かねてから示し合わせていた二人は灯火を消すと真っ暗な中で敬宗を縊り殺してしまった。敬宗を殺すと 翰林学士の路隋を呼び寄せ、敬宗は叔父の李悟を摂政に任じたと偽って詔書を書かせた。翌日には敬宗は譲位したと遺詔を書かせた。そして いよいよ権力を我が物にしようとしたのだが王守澄らに攻められ、その願いは夢と消えた。 |
![]() | ‐キュウシリョウ‐(781年〜843年)匡美。循州興寧 |
![]() | ‐ギョコウシ‐(?〜?)仇士良とともに宦官の権勢を謳歌した宦官。 |
![]() | ‐オウセンゲン‐(?〜?)穆宗時代の宦官で監軍。牛僧孺との政争に敗れた李徳裕は八年間地方まわりを余儀なくされたが復権するために利用したのが王践言であった。 王践言と懇親していた甲斐もあって王践言が枢密使となると引きたてられ宰相になることができた。だが元々李徳裕は宦官の権力増大を 快く思っていなかったので宰相となるや宦官の弱体化を謀った。つまり王践言は利用されただけと言える。 |
![]() | ‐バゲンシ‐(?〜?)武宗時代の宦官。武宗晩期には宦官の中でも大権をもち、武宗に死期が近づくと武宗の叔父李忱を皇太叔に擁立。武宗が崩御するとそのまま 即位させた。宣宗である。 |
![]() | ‐オウキチョウ‐(?〜?)宣宗時代の宦官。宣宗が長寿薬に没頭し却って患うことになった。死期を悟った宣宗は疎んじていた長男を後継者からはずし三男をたてるべく 王帰長、馬公孺、王居方らに後事を託した。だが王宗実がこれに猛反発し長男をたてることこそ正しい道であると主張した。王帰長らは王宣実を淮南監軍に左遷し 口封じを狙ったが逆に王宗実が兵を率いて宣宗の寝所へ闖入。宣宗がすでに崩御しているのを見届け左遷命令が偽りであると確認。王帰長らに迫り ついに長男を即位させた。懿宗である。 |
![]() | ‐バコウジュ‐(?〜?)宣宗時代の宦官で枢密使。王帰長らとともに宣宗の三男・李滋を即位させようとしたが王宗実の反対、脅迫にあい李滋の即位を断念した。 |
![]() | ‐オウソウジツ‐(?〜?)宣宗時代の宦官。宣宗は後継者に三男・李滋をたてることを望み王帰長らに後を託していた。だが王宗実はこれに反対した。そこで王帰長らは聖旨と偽って 王宗実を淮南監軍に左遷し、中央から遠ざけようとした。左軍中尉で軍権を握っていた王宗実は命令に従わず逆に兵を率いて宣宗の寝所へ闖入。 宣宗が既に没していることから左遷命令が偽物と確認。次に王帰長らを脅迫し三男の即位を撤回させ長男を即位させた。これが第一七代皇帝・懿宗である。 |
![]() | ‐ヨウフクコウ‐(842年〜883年)福州の人。本姓喬 |
![]() | ‐ヨウフクキョウ‐(?〜894年)子恪。福州の人。本姓林 |
![]() | ‐デンレイシ‐(?〜893年)仲則。蜀または許州。本姓陳。 |
![]() | ‐リュウキジュツ‐(?〜?) |
![]() | ‐オウチュウセン‐(?〜?) |
![]() | ‐ショウゲンキ‐(?〜?) |
![]() | ‐カンゼンカイ‐(?〜903年)唐末期昭宗時代の宦官で四貴の一人。四貴とは左右神策軍中尉と左右枢密使を総称した呼び名である。すでに宦官専横の時代で神策軍中尉となった韓全誨は 昭宗を完全な飾り物にするため皇帝と大臣との連絡を遮断した。宰相の崔胤が朱全忠と結託し 皇帝の奪回を試みると鳳翔節度使の李茂貞と結託して昭宗を鳳翔に拉致することを計画した。乞巧楼上にいた昭宗は初め拒否したが韓全誨は楼に火を放つと脅したため 昭宗はやむなく楼を降り、鳳翔へ連れて行かれた。鳳翔へ辿りつくと韓全誨は新たな百官を編成し自分の思い通りの朝廷を作りだした。 やがて朱全忠軍が鳳翔城を包囲。朱全忠側は韓全誨側を「天子をさらった賊」と罵り、韓全誨側は朱全忠側を「天子をさらおうとする賊」と罵った。 しかし翌年になると鳳翔城主の李茂貞は孤立化していき、朱全忠に和解しようとした。そして密かに昭宗と連絡をとり韓全誨ら七十二人の宦官を殺害して首を朱全忠に送った。 |
![]() | ‐チョウゲンコウ‐(?〜903年)唐末期昭宗時代の宦官で四貴の一人で神策軍中尉。韓全誨とともに専横をきわめたが李茂貞らに殺された。 |
![]() | ‐エンエキカン‐(?〜903年)唐末期の皇帝昭宗に仕えた宦官で枢密使。韓全誨ら神策軍中尉とともに四貴の一人と称され唐王朝を欲しいままにしていた。 だが朱全忠に包囲され不安になった李茂貞によって殺され、首は朱全忠へ送られた。 |
![]() | ‐シュウケイヨウ‐(?〜903年)昭宗時代の宦官で枢密使。韓全誨、張彦弘、袁易簡と共に四貴と呼ばれた。そして他の三人同様、李茂貞に殺された。 |