‐ヨウシクン‐(生没年不詳)本蘇氏。羅州石城
内府省の宦官。則天武后の死後、復位した中宗に仕えていた。当時は中宗の皇后・韋氏が実権を握っており則天武后以来の女性政権の余波があった。 これを危ぶんだ皇太子の衛王は宮中に斬りこんで韋后一派を打倒しようとした。そして韋后の寵臣・武三思を斬ることには成功したものの中宗に迫ることはできなかった。 それというのも楊思勲に阻まれたからである。楊思勲は一撃のもとに衛王の先鋒隊長を切り殺し、これが衛王隊を圧倒し衛王は捕えられたのである。 だが楊思勲は決して韋后のために動いたのではなかった。それというのも李隆基(後の玄宗)が韋后を打倒しようとした時は李隆基に協力しているからである。 彼にとっては皇帝を害する者が敵であり、皇后は関係なかったということだろう。韋后誅殺に一役買った楊思勲はその功により右監門衛将軍に任じられている。 宦官でありながら勇猛かつ強靭な肉体をもっていた楊思勲には将軍職はまさに転職だったようである。特異の軍事能力を活かして李多祚討伐から各地の反乱鎮圧へと転戦していった。 その度に輔国大将軍、驃騎大将軍と昇進していった。だが楊思勲には残酷な一面があったようで彼は捕虜がいると生きたまま顔の皮を剥ぐことがあったという。 これを軍の士気をあげる軍人とみるか単なる残虐な軍人と見るか微妙なところである。
‐ギュウセンドウ‐(?〜?)
玄宗に仕えた宦官で内給事。幽州に使者として遣わされたとき多額な賄賂を受けた。しかしすぐに発覚し玄宗は即座に処刑命令を出した。処刑の執行を命じられた楊思勲は牛仙童を数日縛り上げ最後に心臓を抉り出し手足を斬って殺した。 更に楊思勲は牛仙童の肉を裂いて食べたという。
‐コウリキシ‐(684年〜762年)高州良徳。本名は馮元一
唐代でもっとも著名な宦官。馮嶺南討撃使の李千里によって宦官にされ、則天武后に献上された。そのときに彼は力士と命名された。 その利発さを可愛がられたがふとしたことで怒りを買い追放されてしまう。だが宦官の高延福に養子として迎えられたなったため、 高力士と名乗るようになる。則天武后が亡くなると李隆基(後の玄宗)に仕え太平公主を倒すクーデターを企てたとき活躍した。 この功により三品官・右監門衛将軍、知内侍省事に任命された。玄宗即位後は益々信用され大臣の上奏文は高力士の目を通してから玄宗に 回されるほどになった。また些細なことは高力士が独断で決裁できるようにもなった。玄宗にとっては高力士はなくてはならない存在と なり「高力士がいさえすれば安心して眠ることができる」と言わしめたほどで、後継者についても高力士の意見を尊重した。だからこそ まわりは高力士に媚び、皇太子でさえ彼を「兄」と呼び、諸王でさえ「爺」と親しみを込めて呼んだのである。大臣の中でも彼に媚び出世 をはかるものが出てきた。高力士が宝寿寺を建立し、大きな鐘を設けた。その落成式で高力士は鐘突き料金をとることにし、一突き十万銭 と決めた。大臣たちは次々と鐘突きを求め、なかには20回もついてそれだけの鐘突き料を払って高力士を喜ばせたものもいた。また彼の 母・麦氏が死んだとき、その葬式で近衛の程伯献は喪服を着て霊前で胸をたたき地団駄を踏んで大声で泣いて、あたかも自分の母親が死んだ かのように悲しみを装って高力士にへつらった。安史の乱が起こると玄宗は成都に逃れ高力士もこれに随行した。その功で 開府儀同三司に任じられ、斉国公に進封された。このときに太子の李亨が即位し(粛宗)玄宗は上皇となったが高力士は玄宗に従った。 だが高力士は粛宗付きの宦官・李輔国にとっては邪魔な存在であり、ついに李輔国の誣告にあい巫州に配流された。 宝応二年(762年)、李輔国が殺されると恩赦を受けて京師に戻ったが、その途中、玄宗の死を知り、北に向って慟哭し血を吐いて死んだ。 高力士は玄宗の手足となったためその当時の著名人とのエピソードも多い。楊貴妃は高力士の推薦を受けて玄宗に仕え、最後には高力士 自身に殺され、詩人の李白などは玄宗から詩を求める使者としてやってきた高力士を軽くあしらい自分の靴を脱がさせてからかったいう。
‐エンシゲイ‐(生没年不詳)
玄宗に仕えた宦官で内侍監。内侍監は宦官のトップで高力士と同格であった。安禄山の反乱で玄宗が成都へ避難したとき同行したが咸陽県望見宮に至った所で逃げた。
‐ホキュウリン‐(?〜755年)
玄宗に仕えた宦官。強大な軍事力をもつ節度使の安禄山に謀反の疑いがあがったとき、僭察として派遣された。僭察とは普通の使者として派遣されるのだが その実態はその土地及び統治者の様子を探ることである。安禄山はこの目的をすぐに察知し疑われないよう篤くもてなした。また多くの賄賂を贈ることで口を封じたのである。 そしてそれは功を奏し安禄山に謀反の様子はなく、実に忠実であると中央に報告させたのだった。 だが賄賂を受け取ったことが発覚し、輔は処刑された。
‐ヒョウシンイ‐(生没年不詳)
玄宗に仕えた宦官で安禄山への勅使となった。だが安禄山は既に謀叛気を表しており 勅使である馮神威に対して寝たまま対面。軽くあしらったにすぎなかった。また返事も出すことはなかった。
‐オウラクケイ‐(生没年不詳)
玄宗期の宦官。安禄山の反乱で長安から都落ちした玄宗に先行し、沿道の役人たちに出迎えの準備をするための使者となったが 沿道の役人はみな逃亡しており、準備ができない罪を追求されることを恐れ逃げだした。以後は不明。
‐ヘンレイセイ‐(?〜?)
玄宗に仕えた宦官。パミール戦線では監軍として従軍、軍の監視にあたった。安禄山が挙兵すると高麗出身の将軍・高仙芝とともに鎮圧に赴いた。 高仙芝はパミール戦線で大勝利をおさめた名将で辺令誠とは既知であった。高仙芝は安禄山と洛陽近辺で開戦するが兵の質に差があり、敗走を余儀なくされた。 そして潼関で安禄山を待ちうけたのである。その頃、辺令誠は中央に高仙芝はわざと負け、官庫の食糧を横領していると報告していた。 かつて辺令誠は上司に殺されそうになった高仙芝を助けたことがありその返礼が未だにないことに憤慨しついに高仙芝誣告に及んだものとみられる。 宦官をもっとも信任する玄宗はこの報告を聞き激怒。高仙芝を処刑した。しかしこの英雄の処刑は軍全体の不信を招くことになり、安禄山は益々有利となった。 そして安禄山の進撃を恐れた玄宗は長安から蜀へと避難したのである。辺令誠は玄宗により長安の留守を命じられた。だが辺令誠は簡単に安禄山に降り 身の保全をはかった。玄宗の信頼はあっさり裏切られたのである。
‐リチョジ‐(?〜?)契丹人
玄宗時代の節度使で謀反を起こして「大燕」皇帝と自称した安禄山に仕えた宦官。幼いころから狡賢で人々の手におえないほどだった。しかし十二、三歳の頃に安禄山によって 去勢させられてしまう。そのときは出血多量で死線を漂ったが熱い灰を塗を塗るという手当てを受けて、なんとか一命を取りとめた。 そして安禄山は彼を宦官として起用。狡猾さが却ってテキパキと仕事をこなすことから次第に寵愛され安禄山の一番の側近となった。 やがて安禄山は唐に対し反乱を起こして洛陽を占拠。皇帝と称し国号を「大燕」とした。だがこの頃から安禄山は失明してしまい、その患いと元々の性格から次第に部下を鞭打つことが 多くなってきた。寵臣である李猪児も例外ではなく、激しく安禄山を恨むようになった。そこで外臣としては安禄山第一の側近の厳荘と結託し安禄山の長男・安慶緒と共に 安禄山を殺害した。
‐リホコク‐(703年〜762年)本名は靜忠
玄宗帝晩期の宦官。安史の乱では玄宗に従い太子李亨とともに甘粛省の霊武に避難した。 学もあり算盤もできる変わり種で見かけは謹直であった。しかし内心は狡猾で 霊武に着くと権力拡大を狙い李亨に即位を勧め李亨の寵妃・張氏にも巧みに取り入った。 李亨が即位すると(粛宗)太子家令に任命され奏事、御家府印号を任され、軍の指揮権までも掌握することに成功。 だが李輔国が権力を集中させても太上皇の玄宗とその宦官高力士が目の上のたんこぶであった。 そこで李輔国はある時、五百の兵を率いて玄宗の行く手を遮り権力を誇示しようとした。ところがこれは高力士の一喝にあい失敗。 李輔国の兵も玄宗と高力士が相手ではと怖気づき跪いて万歳を叫ぶ有様だった。さすがに李輔国も形勢不利と見て 玄宗に詫び、高力士からの玄宗護衛命令を甘んじて受けた。李輔国はこれを激しく恨み、己の力では及ばないからと 粛宗に讒言して、ついに高力士を追放することに成功、その勢いで玄宗を幽閉することもできたのである。その後は張皇后とともに 政治に干渉し横暴をきわめた。しかし李輔国と張皇后は次第に対立するようになる。粛宗が重病で倒れると張皇后は越王李係と結び李輔国暗殺を謀った。 だが李輔国はこの動きを素早く察知し先手を打ち、日没と同時に李係らを捕えた。張皇后は慌てて粛宗の病室に避難したが李輔国は容赦なく入りこみ自ら張皇后を引きずり出して 監禁。夜明けに殺害した。粛宗はこの騒動がショックで間もなく息をひきとった。そして皇太子の李豫が即位した。代宗である。李輔国はもはや皇帝を恐れる風もなく代宗に向って 「大家は宮中に座っていればよろしい。外のことは全て私が行ないます」と公言した。代宗は李輔国を恨んだものの禁軍を掌握している李輔国にかなうはずもなく、また危うく皇太子廃立の 恐れのあった代宗を擁立した彼を尊んで「尚父」と呼び三公筆頭の司空に任命し中書令も兼ねさせた。ついに李輔国は宦官にして初の宰相となったのである。だが代宗は密かに彼を排除を画策。李輔国の部下・程元振を手なずけ次第に権力を分裂させていった。 そして李輔国を博陸王に封じ宦官ではなく貴族として待遇したのである。宦官でなくなった李輔国は後宮から出て行かざるをなり、後宮ならではの権力も失ってしまった。 李輔国は「若様にお仕えできないのならあの世で先帝にお仕えいたします」と嘆き政治の場を去った。だが代宗はそれでも安心できなかったのだろう。ついに賊を李輔国の屋敷に潜入させ 李輔国を暗殺。史上初の宦官宰相も最期は首と右腕のない死骸になりさがったのだった。
‐ダンコウシュン‐(?〜762年)
粛宗時代の宦官で内謁者監。李輔国の専横を快く思わない越王李係は段恒俊に宦官兵を編成させ李輔国を誅殺しようとした。段恒俊は 二百の宦官兵を集め武装させようといた。だがこの動きは李輔国に察知され逆手を打たれ逮捕、翌日処刑された。
‐テイゲンシン‐(?〜764年)京兆三原
李輔国の腹心で張皇后の李輔国暗殺計画を逸早く察知し密告。自ら逮捕に赴いた。その功績により内省事の主管及び左監門衛将軍となったが権力は李輔国に集中したままだった。これが面白くない程元振は代宗に接近し 李輔国の権力削除を謀った。代宗も李輔国の専横を激しく恨んでいたため、これ幸いと李輔国が兼任していた行軍司馬と兵部尚書の職を解き、程元振を行軍司馬とした。 やがて李輔国は中央から追放、四ヶ月後に暗殺された。代宗は程元振を高く評価し驃騎大将軍の職を与えた。軍権を握った程元振は部将の台頭を抑えるべくあらゆる人物を讒言、左遷、解任した。 また吐蕃が侵攻してくると自分の地位が危うくなると心配し、これを報告しなかった。だがこれによって吐蕃は中央にまで攻め込むことができついに首都長安にまで迫ってきた。慌てた代宗は各地の軍隊に動員令を発したが 誰も集まらなかった。そしてここで代宗は程元振が軍人を讒言し、報告を怠ったことを知ったのである。諸侯は程元振の処刑を願ったが代宗にとっては功臣であるため処刑に踏み切れず追放に留まらせた。 故郷へ追放された程元振はそれでも復権を願い女装して長安に潜伏したが、今度は追放された身でありながら都に戻ったことが罪になり遠流刑に処せられ江陵で病死した。
‐ギョチョウオン‐(722年〜770年)濾州濾川
天宝年間に内侍省に入った宦官。給事黄門からはじまり安史の乱においては監軍として前線にいた。そして観軍容宣慰処置使として安慶緒討伐軍の統帥代理を務め その功績で左監門衛大将軍に任命された。官軍が洛陽を取り戻すと開府儀同三司、馮翔郡公に封じられた。次第に権力を強め 長安の要衝・陜州に駐屯すると神策軍の指揮権を握る。その頃、都では程元振が吐蕃侵攻を黙っていたため長安を追われた代宗が陜州に 避難してきた。魚朝恩は大軍を率いて代宗を迎え長安に兵を進めた。長安に戻った代宗は魚朝恩を重用したが魚朝恩はその期待に応えることはなく 却って増長するだけであった。元々無学であったが学術に憧れそこそこかじった程度で、自ら文武両道であると公言するようになり、 ついには判国子監となり鄭国公に封じられて官立学校国子監で講義を行なって宰相の元載を中傷した。また功臣が台頭するのを危ぶみ 功臣への迫害を繰り返した。とくに郭子儀に対しては執拗で、その父親の墓を暴くほどであった。また富豪を冤罪で捕えては殺害し 財産を自らの懐へ送るまねまでした。だが腹心の過失で罷免され大暦五年(770年)三月、清明節のあと代宗に反逆罪ありと責めたてられ 抗弁も虚しく自身の部下である周皓によって縊り殺された。代宗は魚朝恩の遺族に六百万銭の香典を与え自殺したと伝えた。
‐トウブンジョウ‐(生没年不詳)
徳宗に仕えた宦官。建中四年(783年)正月、淮西節鎮の李希烈が謀反した。八月になると襄州を包囲したため、徳宗は原の兵五千を 派遣しようとした。ところがその兵が褒賞金がでないことに腹を立て逆に反乱を起こしたのである。徳宗は長安から逃げ出し奉天に向った。「奉天の難」である。 この徳宗に付き従ったのが竇文場と霍仙鳴であった。奉天に篭城した徳宗は竇文場たちに軍権を与え軍を指揮させた。翌年反乱軍を鎮圧すると 徳宗は竇文場らを正式に左右神策軍中尉に任命した。こうして禁軍は完全に宦官のものとなったのである。神策軍は本来国境警備隊に すぎなかったが魚朝恩あたりから禁軍の一つになり竇文場らが軍権を握った頃には禁軍の最大最強の中核となったのだ。また神策軍は 「天子護軍」と呼ばれ十万の兵を擁した。その後、竇文場は驃騎大将軍に任命され無事に引退した。
‐カクセンメイ‐(?〜798年)
徳宗に仕えた宦官。「奉天の難」では竇文場とともに徳宗に随行し、徳宗から強い信頼を受けた。反乱鎮圧後は左右神策軍中尉に任命され 権勢を握ったが毒殺されてしまった。徳宗は犯人を捕縛、処刑すると霍仙鳴に開府儀同三司を贈って彼の忠勤に酬いた。
‐グブンチン‐(?〜813年)後に劉貞亮
公明正大、忠実無比な宦官。順宗は中風で朝政を見ることができず、順宗の意向は牛美人から李忠言、李忠言から王叔文へと伝えられ、 王叔文は柳家元と裁定して中書に下されていた。そのため王叔文は権勢を増し好き勝手行なうようになった。そして宦官から軍権を 奪うことも考えていた。王叔文の力は大きなもので誰も反対できなかったが、倶文珍だけは反対していた。そして倶文珍は王叔文排除を 試み、順宗に対して広陵王李純を摂政太子にたてるよう上奏。順宗はこれを受け太子を摂政として政治にあたらせついで譲位した。これが 憲宗である。憲宗が即位したことで王叔文の権力は完全になくなり力を失ったところで追放された。憲宗は倶文珍の信用し右衛大将軍に 任命。知内侍省事を主管させた。死後は開府儀同三司を追贈されている。
‐リチュウゲン‐(?〜?)
順宗に仕えた宦官。順宗が中風で寝込んでいるとき牛美人と看病していた。そして順宗の意向は 牛美人から李忠言、李忠言から王叔文へと伝えられ、王叔文は柳家元と裁定して中書に下されていた。 李忠言は臆病な性質で最期まで王叔文には逆らえなかったという。

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