周・春秋・戦国
‐モウシ‐(生没年不詳)
周の幽王に仕えた宦官。「詩経」小雅・巷伯筒に「寺人孟子作為此詩(寺人すなわち宦官の孟子、この詩を作る)」と名が記載されている。
‐ボッテイ‐(生没年不詳)字は伯楚
晋の献公に仕えた宦官で履(靴)を司る。つまり彼の名前は本名ではなく履扱いの宦官という意味である。したがって名が「貂」もしくは姓が「履」とされているのも 、役職や宦官という意味であり彼の名前ではない。(ちなみに本文での彼の名前は「勃貂」と記すことにする)前655年、後妻驪姫に惑わされた献公は先妻の子を殺害し、逃げた次男三男にも殺害命令を出した。その次男・重耳殺害を命じられたのが勃貂である。 勃貂は初め自害を勧めたが重耳は聞き入れず、勃貂に殺意があることをみとめるや素早く垣を越えて逃げ出そうとした。勃貂はすぐさま追いかけたが袂を斬ることしかできなかった。 やがて献公は没すると晋国内でクーデターが勃発。驪姫とその子は殺され重耳を迎える動きが起こった。だが重耳は帰国を拒否、代わって三男の夷吾が即位した。恵公である。この恵公も父に殺されそうになって逃亡したわけだが彼もまた父と同じように 兄・重耳の殺害命令を出した。自分の地位が揺らぐのを恐れたからである。この重耳殺害に遣わされたのがまたもや勃貂であった。前回一人で殺害しようとして失敗しただけに勃貂はその点を反省し 今回は壮士を連れて逃げられないように準備をした。だが大人数が災いし、重耳の亡命先・狄に到着するまえに勘付かれ逃げられてしまう。 前636年に恵公が没するとその子・懐公が即位したが晋国内では重耳即位運動が高まり重耳自身も亡命先の秦が助勢を得て帰国した。そして懐公は廃され重耳が晋の国君となった。 文公である。
だが恵公懐公派の大臣たちは恵公の文公殺害計画に加わっていただけに文公に殺されるのではないかと恐れ密かに文公暗殺を謀った。 文公はこの動きに気付かなかったが勃貂の密告によって知ることになった。勃貂は文公暗殺に二回も関与していたためこの陰謀を知ることになったのだろう。そこで勃貂は この情報を手土産に文公との旧悪を解こうとしたのである。だがさすがの文公も勃貂が謁見を求めてきたと聞くと疑い人をやってこれまでの所業を責めたてた。しかし勃貂は「私は去勢された人間です。 二心を持って主君に仕え主命に背くことはできません。だからあのときはあなたに対して罪を犯したのです。今はあなたが晋の国君です。もう先の事件のことはおっしゃらないでください。斉の管仲は 主人のために桓公を殺そうとしました。けれでも桓公に仕えるようになってからは立派に補佐し桓公を覇者にしました。今では私があなたに一大事を告げようとしているのです。それなのにあなたは私にあってくださいません。 禍いがまた迫ってきているのですぞ。」と自分は晋の国君には忠実であると弁解し、陰謀があるのを知らせようとした。文公はすぐにこのことを悟り勃貂との旧悪を解いたのである。 そして陰謀を知り先手を打って事無きをえたのであった。やがて文公は春秋時代を代表する覇者の一人となったのである。その後、勃貂はどうなったかは不明である。やっと安心して元の靴管理の仕事に戻ったのであろうか。
‐ジュチョウ‐(生没年不詳)
自宮宦官の祖といわれる斉の桓公の寵臣。管仲には「自ら去勢して後宮に入り君主に取り入ることは人情に外れたことであり、このような人間は宰相に適任ではない」と評された。しかし管仲が亡くなると桓公は彼や易牙、開方 の三人を用いた。この易牙、開方も管仲に非難された人物である。この三人は管仲の予言通り権力をほしいままにし、ついに国君のことにまで口だしするようになった。まずは自分たちの意のままにならない公子の昭を廃し無詭を公子にするよう桓公にしむけさせた。 そして桓公が没すると無詭の母・衛共姫と結んで反対派の大臣を次々に殺害して無詭を国君にすえたのである。しかし元公子の昭をはじめ他の子たちも納得がいかないと挙兵し国内で戦争が相次いだ。結局、昭公子は宋へ亡命、他の子達も殺されたり亡命したりした。 この後継者争いは六十五日に及び桓公の遺体はその間、放置されたままであったので虫がわいて戸から這い出る始末だったという。ところがその三ヶ月後、宋に亡命していた昭公子がその支援を受け斉に戻ってきた。形成不利と見た易牙ら三人は無詭を毒殺し昭を迎え入れ昭が即位した。 その後、三人組がどうなったかは不明。
‐シュクサエイ‐(?〜前554年)
斉の霊公に仕えた宦官。前556年、斉は魯を攻め、その部将臧堅を捕らえた。霊公は臧堅の有能さを惜しみ助命する。しかし自害する 危険性があったため自害だけは思いとどまるようにと説得を試みた。その使者に任じられたが夙沙衛である。ところが 宦官を遣わされた事で臧堅は自分が軽んじられていると恥じ、逆に自殺してしまった。霊公としては自分のお気に入りを遣わすことで 信用を得たかったのであろうが裏目に出たわけである。 翌年、斉は晋と戦い敗退する。その殿軍に選ばれたのがまたも夙沙衛であった。ところが将軍の殖綽と郭最は、 宦官に殿軍をやらせたのでは斉の恥だとしてこの人選に反発。夙沙衛と代わった。宦官が重用されるのを恥や不満に感じられるのは斉も同じであったわけだ。 夙沙衛は霊公には重用されたが周りにとっては侫臣と見ていたようだ。そしてこの不満はすぐに噴出すことになった。 前554年、斉の霊公が亡くなると、たちまち夙沙衛誅殺の声が高まった。夙沙衛もそのあたりには気づいていたようで すぐに高唐(地名)に逃れて逆に兵を挙げた。荘公(霊公の子)は討伐軍を派遣したが高唐はなかなか落ちなかった。 そこで荘公は自らも出陣して短期決戦を狙った。だが篭城は続き長期戦へと突入するのである。 そんなある日、荘公は夙沙衛が城の上に居るのを見て、試しに呼んだみた。すると夙沙衛は素直に降りて来るではないか。 「備えはどうだ?」と荘公は聞くと、夙沙衛は「何もありません」とのみ答え、会釈して帰っていった。 その夜、高唐は落ち、夙沙衛も死んだ。この彼らのやりとりは不思議な印象を受けるが夙沙衛は霊公から受けた恩恵もあり せめてその子荘公にだけは挨拶して死のうと思ったのかもしれない。また彼が挙兵したのは自分が殿軍に任命されるほど軍事的才能が あり決して侫臣というだけではないというアピールがしたかったのかもしれない。真実はわからないが結局、彼は秦の趙高と並ぶ 悪宦官として後世に名前が残った。・・・その真価、いかばかりであろうか。
‐カキョ‐(生没年不詳)
斉の荘公に仕えた宦官。あることで笞刑(鞭打ちの刑)に処されたことを恨み復讐する機会を狙っていた。その頃 崔杼が荘公を殺そうとしていた。崔杼は先代の霊公が亡くなったとき、晋の人質だった荘公を迎え即位させたという功績を挙げた功臣である。 しかし荘公はそんな彼に対し、彼の妻と密通と重ねるという、まさに恩を仇で返す真似をしたわけだ。崔杼が激怒したのは言うまでもない。 荘公を恨んでいた賈挙はどういう経緯かは不明だが、この崔杼の謀反計画を知り即座に計画に参加を申し込んだ。 その後も何食わぬ顔をして荘公に仕えながら賈挙は隙を窺っていた。そして荘公が崔杼の妻と密通すべく邸の中へ入ったところを 賈挙は内側から門を閉め、外部との連絡を遮断してから崔杼の部下を招き入れたのである。孤立した荘公はどうすることもできず そのまま崔杼らによって殺された。前548年のことである。賈挙がその後どうなったのかは不明。
‐ソウカ‐(生没年不詳)
斉の景公に寵愛された宦官。兵法家の司馬穣苴が将軍に登用されたとき目付役に任命された。司馬穣苴が景公お気に入りの臣下を 目付役にして欲しいと願ったからである。だが荘賈は景公に寵愛されていることをいいことに軍営に遅刻する有様だった。 だが司馬穣苴は「軍営に遅刻するは軍法に照らすと死刑にあたる。よって斬罪」として容赦なく即座に荘賈を斬りすてた。 例え景公の寵臣だろうと軍法に照らし厳しく処分を行なう司馬穣苴の采配ぶりにそれまで弛んでいた斉の軍隊は一気に ひきしまったという。荘賈はまさに司馬穣苴の生贄となったわけだ。ちなみに杜佑の「通典」によると荘賈は史上初の軍人宦官らしい。 同じ斉の夙沙衛もかつて兵を率いているがこれは正式に軍権をもったわけではないので軍人宦官とは言えないのだろう。
‐イレイ‐(?〜前547年)
宋の平公に仕えた宦官で宋を代表する重臣。平公には重く用いられた彼ら重臣たちだが太子とは馬が合わなかった。太子こそ容貌は美しかったものの 性格が悪く粗暴だったため、お互いに、厄介な存在だうるさい家来だと相反していたのだろう。この太子が即位すれば自分たちが危ないと 考えた伊戻は、太子が楚の外交使節と野外で宴会をしているのを謀反の打ち合わせをしていると平公に讒言した。もちろん太子たちは そんな話はしていなかったのだがそれらしい動きが見えたので平公はこれを信じ太子を拘禁した。そのショックからか太子はまもなく 没してしまった。伊戻たちはやっと一安心した。しかし太子没後に真相が漏れたため平公は激怒し伊戻たち重臣を処刑した。 伊戻たちにとってこんなに早く真実が漏れるとは思わなかっただろう。とんだ誤算であった。
‐セキカン‐(生没年不詳)
斉の宦官。孔子が斉に来たとき宿として自分の邸を宿として提供した。
‐ヨウキョ‐(生没年不詳)
衛の霊公に仕えた宦官。宮刑をうけて宦官となった身だが霊公に寵愛されていた。その寵愛ぶりは当時でも異常なほどで 同じ車に乗せるほどだったという。国君と同乗できるのは親族か師とあおぐ者、または国賓級の客だけであることを考えると 罪人あがりの宦官を同乗させるのは信じられない光景といえる。 当時、衛に来ていた孔子はこの様子を見て「君子にあるまじき行為なり」と言い放つやすぐに衛を去ったほどだった。
‐ラ‐(生没年不詳)
衛の宦官。前485年に太子だった荘公の即位運動に協力。太子と渾良夫が乗った車を御し、衛の有力者・孔氏の邸へ向った。 このとき孔氏の家老に訊問されているが、孔氏の姻戚にあたる者の妾が乗った車だと偽っている。こうして荘公は孔氏の協力を得て 即位に成功した。
‐ケイカン‐(生没年不詳)
秦の孝公に寵愛されていた宦官。衛の公子・公孫鞅(後の商鞅)はこのことに着目し景監を通して秦へ仕官しようとした。 公孫鞅と面会した景監はすぐに孝公へ推薦、孝公も景監の推薦とあって公孫鞅と面会することにした。ところが公孫鞅の話す内容は つまらないもので孝公は呆れて面会を中断し景環を責めたてた。景環も面目をつぶされたと公孫鞅を責めた。ところが公孫鞅は もう一度面会させて欲しいという。だが次の面会も孝公の関心事ではなくまたも孝公の不興と買うことになった。 景環は公孫鞅を責めたてたが今度も面会取り成して欲しいと頼まれる。景環はその熱意に負け、再び取り成す。するとどうだろう、 孝公は公孫鞅の話に惚れこみ公孫鞅を取り立てることにし、しきりに公孫鞅を誉めた。驚いた景環は公孫鞅に何を言ったのか問うと 「一回目二回目は理想政治について述べたが公は関心を持たれなかった。そこで富国強兵策を述べました。これが公の意にかなったのです」 と答えた。こうして公孫鞅は秦に仕え法家の思想による統制国家を作り上げ、秦を強国へと成長させた。秦が天下統一できたのも このとき、公孫鞅が登用されたからこそといえる。その公孫鞅を推薦した景監も隠れたキーパーソンといえる。 だが公孫鞅もさることながら景監もよく三回も推薦できたものである。それだけ孝公の信頼が厚かったからこそできたというところか。
‐ビョウケン‐(生没年不詳)
趙の恵文王に仕えた宦官。あるとき罪を犯し、燕へ逃亡しようとした。しかし食客の藺相如に「あなたは昔、燕王から厚遇されましたが それは趙国の使者として赴いたからです。趙と仲良くしたい燕王から厚遇されたのは当然のことです。しかし今度は燕の亡命者として 燕へ行こうとしています。燕王はあなたを迎えると趙と気まずくなると思うでしょう。だからあなたは燕王に捕えられ逆に趙へ送り返されるに 違いありません。ここは素直に謝罪すべきでしょう。」と説得された。そこで言われた通り恵文王に謝罪した。すると藺相如の 説得通りあっさり許されたのである。このことから繆賢は藺相如を賢人と認め、後年秦への使者を選ぶ際には藺相如を推薦している。 また藺相如も使者の役割を立派にやりとげ趙の直臣となり重臣の一人として趙を支えていくのである。先の商鞅といい藺相如といい 宦官の推薦を受けて名を残した名宰相が見られるのも戦国時代ならではといえる。
‐ロウアイ‐(?〜前237年)
秦始皇の母に仕えた宦官。秦始皇の母は元々趙国豪族の娘で舞の名手であり豪商・呂不韋の妾である。その呂不韋は趙の人質となっていた 秦の太子を秦王に即位させ利益を得ようとしていた。そして太子の手助けをしているときに太子が呂不韋の妾を見初めたのである。 呂不韋はここで太子に嫌われてはと、すぐに妾を太子に譲った。そして太子とこの妾の間に子供が生まれたのである。これが史上初めて 中国を統一した秦始皇である。しかしこのような経緯があるため秦始皇の父は呂不韋の可能性もあるのだ。それはともかく呂不韋の 予備工作が実り太子は秦王に即位した。荘襄王である。呂不韋の妾だった女は皇后となり呂不韋も即位の功績により丞相に任命された。 さして三年後に荘襄王が亡くなると幼い息子の政(後の秦始皇)が即位し呂不韋と皇后が後見した。この二人は荘襄王が亡くなったことで 関係を戻したもののさすがに以前とは立場が異なっていた。このような関係が明るみに出ては今の地位は保てないどころか王母に手を出した ということで始末される可能性もあるのである。そこで呂不韋は自分の代わりに食客をあてがったのである。この食客は立派なものをもっており それを大きな車輪の軸に刺しこんで持ち上げることさえできたという。それに惚れこんだ太后はこの寵愛を偽宦官として後宮にいれ寵愛した。 この二人の間には二人の子供が生まれたがもちろんそれは秘密にされていた。太后の寵臣ということからこの食客も一目おかれ、前239年には 秦王政(秦始皇)から長信侯に封じられ表舞台にたつようになったのである。そしてついには丞相・呂不韋と並び立つようになったのだ。 だが彼の権勢は長くは続かなかった。一物だけで出世した彼には他に優れていた点があるわけでもなく、また傲慢だったこともあって 政敵をたくさん作ってしまったのだ。ついに偽宦官であると密告され、太后との間に二人の子供をもうけたことさえも露見してしまう。 彼はあわてて政変を企てる秦王政を殺害しようと挙兵するが用心深い秦王政は迎撃の準備を整えておりたちまち敗北。逃亡するもあっさり捕まり車裂きの刑に処せられた。
‐チョウコウ‐(?〜前206年)趙の人
趙の王族出身。父が罪を犯したため連座制で若くして宮刑に処された。趙が秦に滅ぼされると捕虜になったが獄法に詳しいことから 始皇帝に抜擢され末子・胡亥の家庭教師として登用された。始皇帝が没すると丞相・李斯と結託して遺言を偽造。皇太子だった長子・扶蘇を 自殺させ胡亥を二性皇帝に即位させた。そして趙高は政権を握り天下を我が物にしようと考えた。そこで趙高は二世皇帝に対し、皇帝は むやみに外に出てはいけない。奥にいるからこそ却って威厳が保たれるのである。と、進言して二世皇帝と朝臣との繋がりを絶ちきった。 そして宦官である自分が皇帝と朝臣とのパイプ役となり政権を自由に操れるようにしたのである。この頃になると秦の圧制に耐えかねた農民 がたちによる反乱が相次いだ。陳勝・呉広の乱である。各地から反乱を伝える使者が都にもたらされたが趙高は自分の失政となることを恐れ この報告を握りつぶしていた。さすがに丞相の李斯もこれには困り果て二世皇帝に後宮から出てきて政治をとってもらうよう上奏しようとしていた。 政権掌握を狙う趙高としては胡亥擁立に協力してくれた李斯が非常に邪魔な存在でもあった。そこで趙高は二世皇帝が宴会を楽しんでいる ときを見計らって、李斯に上奏するタイミングだと伝えた。それが何回も続いたため二世皇帝もついに頭にきて「丞相は朕の楽しんでいる ときに限って上奏する。丞相は朕を侮っているのか」と趙高にもらした。趙高はすかさず「丞相は陛下を軽んじています。いずれ謀叛を起こすに 違いありません」と吹きこんで、李斯逮捕の命令が出るように謀り、ついに李斯を処刑させることに成功したのである。李斯の処刑後、趙高は 二世皇帝が久々に朝廷に出てきた日に鹿をひいてきて陛下に馬を献上するといった。二世皇帝はなぜ趙高は鹿をひいてきているのに馬と 言うのか不思議に思ったが朝臣は皆、馬であると答えるため、自分自身の判断能力を疑うようになり益々奥に引きこもるようになった。 このとき、馬ではないというそぶりを見せた朝臣がその後、趙高に殺されたのは言うまでもない。一方、反乱軍は日々大きくなっていったが 趙高は相変わらず報告を握りつぶしていた。だがそれにも限界がある。二世皇帝が薄々気付き始めたのである。趙高は真実が明るみにもれるのを恐れた。 失政だけでなく報告を握りつぶしていたからである。自分が罪を得て処刑されるのは時間の問題であった。そこで趙高は先手をうち皇帝殺害に ふみきった。自分の娘婿・閻楽に兵を率いさせ後宮に闖入。助命を嘆願する二世皇帝を情け容赦なく殺害した。そして趙高は新しい傀儡として 自分たちが自殺に追いやった始皇帝の長子・扶蘇の子、子嬰を秦王として即位させた。その一方で反乱軍に内通しいつでも迎え入れる準備 を整えていたのである。だが即位を渋る子嬰を説得しようとしたところ子嬰の罠にかかり殺されてしまった。 秦帝国を滅亡へと追いやった宦官はこうして滅びたのである。
‐カンダン‐(生没年不詳)
秦の宦官。趙高は二世皇帝を殺害し子嬰を秦王に立てたものの、それは表向きで実は子嬰を殺して反乱軍に内応しようと企んでいた。 趙高の本心に気付いた子嬰は逆に趙高殺害を計画。腹心の宦官・韓談と相談して趙高謀殺を成功させた。

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