‐コウウン‐(?〜?)
清朝は明朝が宦官の害で滅びたことを考慮し宦官に権力を与えないようにしていた。 雑用しか任命しなかったことや北京を離れさせないなど様々な対策をたてていた。 しかし、それでも宦官の災いは出たようである。乾隆年間には高雲が国政に口を挟むことができたという。 ちなみに清の国法では宦官が国政に口を挟むと死罪とある。乾隆年間にはすでにそれが揺らいでいたということか。
‐チョウフウ‐(?〜?)
乾隆年間の宦官で多くの朝臣を讒言した。
‐ゴテンセイ‐(?〜?)
嘉慶年間の宦官。乾隆年間の張風は朝臣を讒言して地位の安定を図ったが呉天成は逆に朝臣と結びつき 地位の向上と富貴を図った。
‐ショウトクロク‐(?〜?)
嘉慶年間の宦官。呉天成は朝臣と結びつき富を得たが蕭得禄は司法に関与して権力を握ろうとした。
‐リュウキン‐(?〜1813年)河北
嘉慶年間の宦官。もともと天理教の信徒で宦官として後宮に入りこみ下級宦官相手に天理教を布教していた。 これは天理教の反乱の下準備で決起と同時にうちから攻撃できるようにしていた。そして1813年9月15日、ついに決起した。 癸酉の変である。しかし数で敵わず敗北。劉金らは捕えられ処刑された。
‐リュウトクザイ‐(?〜1813年)
癸酉の変に参加した天理教徒。1813年9月15日、反乱軍を手引きし東華門から進入させようとした。 事前に城内へ入りこむことはできたが翌15日に蜂起する直前、手引きしていた兵隊の袖の下の武器を 門兵に見つけられ数十人を入れただけで門を閉じられてしまった。劉得財はすぐに高級宦官の常永貴を捕え 殺害したが官軍に包囲され負傷したのち逮捕された。そして早々と処刑されたのである。
‐ヨウシンチュウ‐(?〜1813年)
癸酉の変に参加した天理教徒。1813年9月15日に蜂起する予定の反乱に参加。
‐ジョウエイキ‐(?〜1813年)
嘉慶年間の首領宦官。天理教徒の反乱に遭遇し殺された。
‐オウホウチ‐(?〜?)
清朝末期の大物宦官。
‐チョウカイテイ‐(?〜?)
清朝末期の大物宦官。
‐リュウコウキョウ‐(?〜?)
清朝末期の大物宦官。
‐ヨウシシン‐(?〜?)
清朝末期の大物宦官。
‐チンランギョク‐(?〜?)
河北省河間府の出身。西太后に仕えた。後に西太后の寵臣となる李蓮英は同郷の陳蘭玉を頼り宦官として後宮に入ったのである。
‐アントクカイ‐(1844年〜1869年)
‐リレンエイ‐(1848年〜1910年)
‐サイギョクキ‐(?〜?)
‐ジョウレンチュウ‐(?〜?)
‐ショウトクチョウ‐(1876年〜1945年)
‐ヨウランエイ‐(?〜?)
‐ジョウハチジュウ‐(?〜1898年)
光緒帝腹心の宦官。西太后が戊戌の変に気付くと光緒帝は聶八十らを使者として康有為と梁啓超へ送りこみ 逃げるよう伝えさせた。おかげで康有為らは西太后に逮捕れることを免れた。しかし怒りの納まらない 西太后は聶八十らを代わりに逮捕。聶八十には叩き殺す命令が下された。
‐チンホウ‐(?〜?)
清朝末期の小太監。1900年、8カ国連合軍が天津から北京へと攻めあがる報告が紫禁城へ入ってきたとき ちょうど、ワンタンの盆を捧げて西太后に朝食を進めにきていた。報告を聞いた陳炮は盆を放り出し 宦官帽と靴を脱ぎ捨て普段着に着替えて宮外に逃げ出した。そのとき彼は黄色のお椀だけは こっそり袖の下に隠しどさくさに紛れて自分のものにしようとしていた。だが逃げるにしても当てがない為、 彼は避難しようとする西太后の一行に付き従っている。そして彼はそのおかげで出世しているのである。 と、いうのも西太后は常に黄色いお椀で食事をしていたのだが急な避難だったためお椀を持って来ることができなかった。 当然、西太后は機嫌を悪くし周りに当り散らした。陳炮にしても付き従ってしまった以上、お椀を盗んだことが 露見するのを恐れていた。そこで彼は西太后のためにお椀を持ってきたとお椀を捧げ出した。西太后は これを喜びその場で御膳房の首領に取り立てられ、都に戻ってからはお椀を褒美にもらいうけた。
‐コウレンザイ‐(1879年〜1896年)
‐チョウシュウトク‐(?〜?)
宣統年間の宦官。韓続旺の弟子となり北京西郊の蓮花寺を引継ぎ、二百余間の土地と耕地、果樹、山林付きの 千百二十五廟を所有した。 清朝が滅亡すると宦官の証言者として座談会で多くの証言を残した。
‐チョウエイショウ‐(?〜?)
清朝滅亡期の宦官。青年になってから宦官となり早くも老後に備えて自宅用の土地のほか 北京市内に二十一軒の宅地を三千四百元で買った。ところがラストエンペラーこと宣統帝溥儀が 宦官撤廃令を出し一時、後宮を追い出されることになる。 もっとも後宮の人々にとって雑用全てを取りしきっていた宦官がいなくなったことは大変不便だったようで 数人後宮に戻されている。太妃付きの趙栄升もこのとき戻されたのだろう。 翌年には溥儀ら皇族は民国の優待条件が切れたという理由で紫禁城を退去命令を出されるが 趙栄升ら数人の宦官はそのまま溥儀とその妻・婉容に付き従った。
‐デンペキシン‐(?〜?)
宣統期の宦官で、貴族の毓朗府に勤務していた。だが宮廷外での宦官は安月給で田壁臣は月に三元しかもらえなかった。そのためひどい生活を余儀なくされ 衣服を買うことさえままならなかったという。

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