後漢
‐テイシュウ‐(?〜114年)季産。南陽の人
明帝の太子に仕えた宦官。章帝が即位すると小黄門を経て中常侍に栄進する。和帝が即位すると鉤盾令も兼ねるようになる。 その頃は外戚・竇憲が朝政を牛耳っており食封も二万戸を誇っていた。これを恐れた和帝は竇憲を除くことを画策。 おりしも竇憲が反逆しようとしていたことが発覚したため鄭衆が指揮をとり、不意を襲って竇憲一族を滅ぼした。 この功績で鄭衆は大長秋に任じられた。また和帝の信頼も厚く、その後も政治相談役として寵愛された。
‐サイリン‐(?〜121年)敬仲。湖南桂陽
75年、明帝のときに仕えるようになり和帝時代には中常侍にまで出世、政治に参画するようになった。 和帝皇后・ケ綏が郡国からの珍宝献上を禁止して紙墨の改良を命じたときには尚方令だった蔡倫は 役職柄、紙の改善に勤しむ。その結果、良質な紙を完成させるに至った。この紙は一般に「蔡侯紙」と 呼ばれ一般にも普及するようになった。このように偉大な功績を挙げた蔡倫だが晩年になると竇太后 の信認を受け、安帝の祖母追放事件に関与する。そしてこれが問題となってしまうのである。竇太后の 死後、この追放事件を恨んでいた安帝は早速取調べを始める。そして出頭を命じられた蔡倫は恥辱を受けることを 嫌い、服毒自殺した。
‐ハンホウ‐(?〜?)
安帝時代の中常侍。この頃の宦官は既に汚職に手を染めており、後々には贅沢な暮らしをおくるものも出てくるが 樊豊はその先駆けのような存在で多くの財を蓄え、邸も立派な庭園を構えるほどであった。また別荘も もっていたというのだからその財産は途方もないものだったのだろう。
‐リジュン‐(?〜125年)
安帝の側近。その頃はケ太后が摂政していたがその死後、ケ太后の一族を陥れ庶民に落とし安帝に 実権を戻すため尽力した。その功で安帝が実権を握ると皇后大夫となる。安帝の後ろ盾を得た李潤は 専横を極め多くの功臣に罪をあたえ消し去った。安帝が没するとあわてて新皇帝を擁立しようとしたが 孫程のクーデターにあい斬られてしまった。
‐コウケイ‐(?〜?)
李潤とともに安帝に仕えた宦官。安帝が崩御すると閻太后に属し皇太子を廃して北郷侯を擁立した。 このとき、今まで仲間だった安帝乳母の王聖らを追放して自分たちの権力を強化している。 だが北郷侯は即位直前に病死。あわてて新皇帝候補を探すが間に合わず孫程のクーデターに遭って失敗に終わった。
‐ソンテイ‐(?〜132年)稚卿。琢郡新城
後漢では珍しい義に厚い宦官。役職は中黄門。安帝が崩御すると当時朝政を牛耳っていた閻皇后一派が 皇太子を廃立し北郷侯劉懿を擁立。しかし北郷侯は直前で病死してしまう。そこで孫程は一八人の同志とともに クーデターを起こし、廃立されていた皇太子劉保を即位させた。順帝である。このとき、閻皇后派の 首脳宦官・江京は斬り李潤を逮捕している。孫程は不正を憎み汚職を嫌う性分で、後に清流派と呼ばれる多くの官僚を悪徳宦官から守っている。 宦官の立場から考えると彼の存在は非常に面白いと言える。
‐チョウボウ‐(?〜?)
順帝に仕えた宦官で類にもれず汚職に精を出していた。これを告発されると逆に告発者を弾劾、投獄した。 この事件を知った孫程は順帝に面会し、傍にいた張防に対して「なんじ姦臣、殿上から下がりおろう!」と怒鳴りつけた。
‐ゼンチョウ‐(?〜160年)河南の人
桓帝に仕えた中常侍。当時は外戚の梁冀兄弟が権力を握っており自分たちに歯向かうものは皇帝でさえ毒殺する有様だった。 これを恐れた桓帝は厠で唐衡と相談し協力者を求めた。その結果選ばれたのが唐衡と単超ら四人である。唐衡、単超ら五人は桓帝と密談し 梁冀征伐を画策。単超は率先して臂を噛切って協力を誓った。そして梁冀の不意をついて邸を包囲、梁冀を自殺に追いやった。 この功績により単超ら五人は侯に封じられた。俗にいう「五侯」である。新豊侯。食邑は二万戸。 しかし翌年に単超は病気に倒れ、桓帝から車騎将軍に任命するという励ましを受けるものの適わず没した。
‐サワン‐(?〜165年)河南平陰
桓帝時代の小黄門史。単超ら四人とともに桓帝に従い外戚の梁冀を討ったその功により中常侍に栄進。侯に封じられた。上蔡侯、食邑一万戸。 単超が亡くなると同僚の宦官とともに横暴の限りをつくし、汚職によって財を蓄え豪壮な邸宅を築き権勢を誇ったが 165年に司隷校尉・韓演によって告発され失脚。自殺に追い込まれた。
‐ジョコウ‐(?〜?)下{丕β}良城
中常侍。唐衡の推薦をうけ梁冀討伐に参加。それにより武原侯に封じられた。食邑一万戸。単超死後は桓帝の寵愛をたのみに汚職に励む。 甥の徐宜が不正を犯し東海太守・黄浮に処刑されたときは桓帝に讒訴して黄浮を免官させ処刑した。
‐グエン‐(?〜?)魏郡元城
黄門令。桓帝の外戚排除に協力。左右の虎賁および都侯剣戟の士・七千人を指揮して梁冀邸を包囲した。 その功績により東武陽侯、食邑一万五千戸を賜った。
‐トウコウ‐(?〜?)頴川郡
桓帝に仕えた宦官。梁冀を恐れた桓帝に厠で相談をうけ単超ら四人を推薦した。 梁冀討伐後は汝南候、食邑一万三千戸を賜った。
‐チョウウン‐(?〜?)
梁冀に属した宦官。桓帝と五人の宦官が不穏な動きをしたとき、梁冀の命令で禁門に入りこみ警戒するが 逆に「宮門侵入罪」として逮捕され梁冀の皇帝排除の動きが明るみに出た。これにより桓帝と五人の宦官は 梁冀征伐を断行。これを滅ぼした。
‐ソウトウ‐(生没年不詳)季興。豫州沛国{言焦}県
幼い頃から太子・劉保に仕え読書役となっていた。劉保が即位すると(順帝)小黄門から中常侍に転じ、 桓帝が即位すると費亭侯に封じられ大長秋に転じられた。また三十数年間の宮仕えの間に多くの賢人を推挙し 多大な功績を残した。ある者に告発されたこともあったが桓帝は外部からの報告書は信用できないとしてこれを却下した。 曹騰も告発者を恨むことなく逆に能吏であると湛えたという。
‐リョキョウ‐(?〜?)漢盛。河南郡成皋県
幼い頃から宦官として朝廷に仕えていた。当時の大物宦官は大抵が汚職にはしっていたが呂強は異色の清廉潔白な人物であった。また富貴を望むこともなく 霊帝から都郷侯に封じられる話が出ても決して受けることはなかった。そのため霊帝も呂強を信用していた。 黄巾の乱が発生すると迫害されていた官僚の復帰を進言し、汚職役人、宦官を処罰して国の安定を保つことを進言した。 霊帝も呂強の案に賛成し官僚の多くが復帰できた。しかし汚職宦官だけは処分することができなかった。それというのも霊帝自身が汚職に 懸命になっていたからだろう。 そんな呂強だったがやはり他の宦官から恨まれること甚だしかった。ついに彼は党を組んで霊帝廃立を企んでいると誣告されたのである。 霊帝はまさかと思いつつ呂強を召し出して問いただそうとした。これを知った呂強は憤慨し「これまで国家に忠誠を尽くしてきたのに・・・」と呟いて 自殺してしまった。
‐ソウセツ‐(?〜181年)漢豊。荊州南陽郡新野県
桓霊期に勢力を奮った宦官。桓帝が崩御すると百官1000人を連れ北方にいた劉宏を迎え擁立した。霊帝である。曹節はこの功績により 長安郷侯に封じられた。この頃には宦官の勢力が圧倒的に強く、外戚の竇武は陳蕃ら清流派とともに宦官一掃を謀っていた。しかし曹節は いち早く情報を掴み兵を率いて竇武らを滅ぼした。172年に竇太后が没すると王甫、侯覧とともに告発されたが逆に告発者とその関係者を 弾劾し1000人あまりを逮捕している。桓帝の弟・渤海王が謀反を企むと兵を率いて征伐し加増された。第二次党錮の禁では幼い霊帝に 奸党について説明し霊帝に清流派を弾劾するよう諭した。この二年後、何者かによって王宮の朱雀門に「天下大乱、曹節、王甫は太后を閉じ込めて殺し 公卿みな銭のとりこ、忠心を言うものなし」と大書されている。
‐オウホ‐(?〜179年)
曹節、侯覧とならぶ悪徳宦官。桓帝の弟・渤海王が謀反の罪で左遷されたとき、渤海王は王甫に取り成しを頼んだが王甫が取り成す前に渤海王は許された。 そのため渤海王は王甫に礼を言わなかったのだが王甫はこれを恨み渤海王が再び謀反を企んでいると告発。自殺させた。172年のことである。 このように皇族でさえ恐怖に陥れた王甫であるが数年後にはあることから獄死している。実に因果なものである。
‐コウラン‐(?〜172年)山陽防東県
曹節、王甫と並ぶ巨頭宦官。汚職に励み財を蓄えていた。とくに邸宅は16も所有しており皆、宮中のようなものであったという。また巨大な墓を築き己の権力の大きさを 誇示しようとしていた。張倹はこのことを告発したがもとより握りつぶされてしまう。張倹はついに実力行使に踏み切り軍をもって侯覧の邸を打ち壊し全財産を没収した。 怒り心頭に達した侯覧は霊帝に取り入って官僚の大弾圧を開始。六百数人の官僚や儒学生を投獄した。 それほど巨大な権力を奮っていた侯覧だったが一役人に告発されたことで罷免されてしまう。そして侯覧は絶望のあまり自殺してしまった。 あまりにもあっけない終わりである。
‐ジョホウ‐(?〜184年)
後漢末の宦官。黄巾の乱の際、黄巾党の幹部・馬元義と連絡をとり身の保全をはかった。しかし同じ黄巾党の唐周が宮廷に乱の計画を密告したため 真相が発覚。馬元義は捕えられ腰斬され、徐奉も内応の罪で処刑された。
‐ホウショ‐(?〜184年)
後漢末の宦官。黄巾党が挙兵する際、宮廷内でのクーデターに参画したが党の唐周が密告したため 計画は発覚。内応罪で処刑された。
‐ケンセキ‐(?〜189年)
霊帝期の宦官。黄門。霊帝から武略ある忠臣と信頼されエリート武人集団・西園八校尉の筆頭である上軍校尉に任命された。 霊帝が没すると弁皇子を推す外戚・何進と協皇子を推す宦官たちは互いに争い出すが結局、弁皇子が即位した。 そして何進と特に反目していた蹇碩は投獄され処刑されてしまったという。
‐テイコウ‐(?〜189年)
十常侍の一人。
‐チョウジョウ‐(?〜189年)豫州潁川郡
中常侍。十常侍の筆頭。桓帝の頃からの汚職宦官で早くも清流派と対立していた。しかしその頃は強い権力は持っていなかったようで 司隷校尉・李膺が張譲の弟を汚職で逮捕、処刑した時は桓帝に訴えるものの逆に張譲に非があると裁定されている。その張譲が強力な権力を握るのは 霊帝が即位してからである。張譲は霊帝に宮室建設を勧め、太原、河東などからの材木買いつけを担当。その職権を活かし文句をつけては買値の十分の一 に値切り、浮いた十分の九を着服していた。しかし、霊帝からの信頼は絶大で「張譲は朕の父親、趙忠は朕の母親」と慕われていた。 だがその霊帝が没すると宦官が権力を握っていることを憎んでいた外戚の何進が宦官絶滅を計画し始めた。 その計画を知った張譲たちは何進を欺いて宮中におびき寄せ殺害、自分たちの身を守ろうとした。 ところが何進殺害には成功したものの何進の腹心・袁紹が怒って宮中に乱入。たちまち大勢の宦官を殺戮した。 慌てた張譲らは霊帝の子・小帝をさらって城外へ逃げ出したが追いつかれ遂に川に身を投げて自殺した。 これにより後漢王朝の悪徳宦官は絶滅したのである。
‐チョウチュウ‐(?〜189年)冀州安平郡
中常侍。十常侍の次席。若くから宦官として後宮に仕え、五侯に協力して梁冀を誅殺した。その功によって都郷侯に封じられている。 だが延熹八年(165)に関中侯に位を落とされた。この時には故郷の県の租千石を禄として与えられている。霊帝が即位すると 中常侍に任命され、更に曹節の死後は大長秋に任じられた。霊帝からは「朕の母のようなものである。」と慕われ 黄巾の乱のときには宦官初の車騎将軍に任命されている(単超も車騎将軍に任命される話があったが単超は任務を行う前に 死んでいる)。こうして栄華を極めた趙忠だが霊帝が没すると外戚の何進と反目する。そして張譲たちと何進殺害に及んだが 何進を討たれたことに激怒した袁紹によって切り殺されてしまった。
‐ダンケイ‐(?〜189年)
中常侍。十常侍の一人で張譲らとともに大将軍何進を殺害した。しかし何進の腹心・袁紹が宮中に兵を連れて雪崩れこむやたちまち 小帝と協皇子を連れて城外に逃げ出した。だが逃げ切る事ができず追撃してきた閔貢に叱責されたこともあって 遂に河に身を投げて死んでしまった。また尚書の廬植に追いつかれ首を斬られてしまったともいう。
‐カウン‐(?〜189年)
十常侍の一人。
‐カクショウ‐(?〜189年)南陽郡宛県
十常侍の一人。大将軍何進と同郷の宦官。蹇碩が何進を殺そうとした時、同郷のよしみでこっそり通報。 おかげで何進は暗殺を免れ逆に蹇碩を殺害することができた。郭勝は仲間意識の強い宦官にしては異例のことである。 だがそんな郭勝も袁紹の宦官大虐殺に遭い殺害された。
‐ヒツラン‐(生没年不詳)
十常侍の一人。掖庭令。張譲の命令で銅人四体を鋳造し、蒼龍・玄武の宮門に並べた。 また、天禄蝦蟆を鋳造して、平門外の橋の東に水を吐かせ、その水を宮殿の中に流れさせた。 翻車・渇烏も作って、橋の西に設置して南北の郊への道に水を流れさせ、人々の道を洗い清める手間を省いた。渇烏は道路に水をまく機械で翻車は河から水を引き上げる機械である。 ちなみに渇烏、翻車は水利灌漑の効率向上のためにも有効活用され、 これにより灌漑の効率を大いに高めている。宋代の龍骨車はこれを原型にしているという。 袁紹の宦官殺戮のときまで生きていたかは不明。
‐コウボウ‐(?〜189年)
十常侍の一人。
‐ソンショウ‐(?〜189年)
十常侍の一人。
‐カンリ‐(?〜189年)
十常侍の一人。
‐リツスウ‐(?〜189年)
十常侍の一人。
‐チョウキョウ‐(?〜189年)
十常侍の一人。
‐ソウテン‐(生没年不詳)
十常侍の一人。鉤盾令。張譲の命令で南宮の玉堂を修復した。袁紹の殺戮時にどうなったかは不明。
‐シュウ‐(?〜?)
曹節や王甫が権勢を誇り外戚との対立は深まるばかりの頃、名を残した宦官。 彼は外戚の竇武が宦官一掃の許可を太后に求めた上奏文を見つけたのである。 そして彼は驚き慌てて曹節に通報。おかげで曹節は竇武らの密謀を知り機先を制して壊滅させることができたのである。
‐サホウ‐(生没年不詳)
霊帝期の小黄門。黄巾の乱のとき張角と対峙していた廬植軍を監察するべく朝廷から派遣されたが左豊は職務そっちのけで 廬植に賄賂を要求した。だが清廉潔白な廬植はこれを断り、左豊は大いに恨んだ。そして朝廷に「廬植は戦争を怠け却って謀反を企んでいる」 と上奏した。霊帝が怒ったのは言うまでもなく、たちまち廬植は捕えられた。もっとも左豊はその後、失脚し真実が明るみに出たため 廬植は釈放されている。
‐キョボク‐(?〜?)
後漢末期の宦官。大将軍の何進が宦官皆殺しを謀っていることを知った、張譲ら十常侍は何進殺害を計画。 そして偽の内示で参内させて殺害した。渠穆はその何進を直接斬った宦官である。
‐リョウショウ‐(?〜?)
後漢末期の大長秋。大将軍の袁紹と仲が悪く袁紹は曹操に梁紹を殺すよう依頼していたが曹操は 漢高祖と雍歯の関係を引き合いに出して応じなかった。

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